ひといき入れよう

経験と感じたこと

小野寺史宜の小説「ひと」を読んで感じたこと。幸せと絶望:クズが持つ影

まず感じたのは、長文が読みたい。お願いします。次は長文になっていてください。

あまりの長文欲しさに内容が入ってことないこともしばしば。

でも、こうでなければならないと期待しすぎていた自分に気付きました。

人との付き合いの中で相手に期待し過ぎては人間関係が簡単に破綻してしまう。

その期待が目隠しになり相手の良さが見えなくなって関係が終わってしまう。

あのベストセラー本にも書いてあった。

相手がどうするかは相手の課題であって自分がコントロールできるものではないと。

相手の課題と自分の課題を分離することが大切

みたいなことが記されていたような気がしたのを思い出す。

それに、全ての人間関係に東野圭吾を求めてもだめなのだ。

全ての人間が東野圭吾だったら東野圭吾の良さが良さではなくなってしまう。

さすがに世の中の作家が皆、東野圭吾だったらうんざりする。

東野圭吾を手放した時、この小説と仲良くなれた。

だからと言って、頭に入ってこなかった内容の部分までは戻ろうとは思わない。

神経質もまた継続を阻む。

「前に言ったじゃん」「何回言わせんの?」

といちいち言ってくる人の言うことを気にしていたら布団から出るのも嫌になる。

朝になったら布団から出て出勤しなければならないのだ。

小説との付き合い方が大まかに分かると内容が大まかに入ってくるようになった。

主人公の友人が「どこの馬の骨か分かんないじゃん」

と言ったときの主人公の返しが友人っていいよなって思わせるやりとりだった。

自分もこんなやりとりしたいな。やりとりできる人間関係にあこがれるな。

この気持ちを目標に人間関係を築こうと心に決める。

自分にとっての剣を探す旅に出ようと心に決めた。

あ、剣とは主人公である聖輔の友人の名前だ。

勇者が伝説の剣を探す冒険のような例えをしたわけではない。

「どこの馬の骨だ?」よく聞くけど使ったことないな。

映画「ハスラー2」でもそんなセリフあった。

プールバーのオーナーがトム・クルーズ扮するハスラー2に言ってた

「どこの馬の骨だ?」と。で、ハスラー1がオーナーをなだめる。

トムはニタニタ笑って返していた。

アホっぽいのかただ若いのか分からないけど、

才能があるキャラクターに感化されてビリヤード始めちゃったよな。

自分だけじゃなくてビリヤードブームまで起きちゃって、

物語のキャラクターの影響力で球を突くボッコまで売れるようになっちゃったからな。

あの映画って30年前ぐらいじゃない?「どこの馬の骨だ?」って廃れないね。

それは置いといて、

この本は本屋大賞から生まれた感動のベストセラーと帯にありました。

主人公聖輔と周りの人とのやりとりが心地いいんですよね。

人との関わりって幸せだと感じさせてくれるようなやりとり、

それだけに嫌な予感を感じさせる部分もあって

幸福なだけに落ちるのが怖い感覚をもちつつ読み進めました。

それもこれもクズが出てくるから。

や~、ハッピーエンドが好きな自分としては

嫌な終わり方はしないで下さいと願いながら読みましたね~。

さぁ、結果はいかに。まだ、読んでない方は是非。